演劇と、ダンスと、子どもの遊びと、手芸と、読み物と書き物が好きです。好きなものいろいろをつれづれなるままに。
行って来ましたよ、「水俣・新潟展」(今まで、タイトル逆にしてた気がするが)。
辛くなるだろうなーって思ってて、やっぱり見終えて辛くなったけど、良かったな。行って、良かった。
いつも帰りのバスに乗るバス停にね、ポスターが貼ってあったんです。
だから、毎日どうしよっかなあ、でも休むの優先かなあって思っていた。どうしても行ったらイロイロ考えるだろーな、とかわかってたし。正直、しんどいな、って。
でも、結局「知ることから始めよう。」というポスターに書かれた一文が、背中を押してくれました。
なんか、捕まえ損ねちゃいけない気がしたのね。
新潟も、いわゆる新潟水俣病と言われる公害病が発生している地域です。だけど、私の知識と言えば小中学校の社会科程度。それが、勿体ない気がして。
ちょっと話が飛びますが、先日長岡の空襲の話を地元のテレビ局がドキュメンタリーにまとめていて、その番組を見ながらも「身近な話なのに知らないなあ」って思ったんですよ。
9条を活かして平和な世界を、なんて活動してるのに、同じ県内であった悲劇をきちんと知らないんだなあって。もちろん、ヒロシマやナガサキの原爆被害について知るのも大事なことですが、足元がおろそかって言うか、まず、新潟で起きたことをちゃんと知るべきなんじゃないのかなあって。
そんな思いがベースにあったせいかもしれない。
実際は、ホントに「水俣」の展示がメインだったので新潟のそれについては展示室が別で、ちょっと時間が足りなくて見て来れなかったんだけども、基本的なところをまずとらえるっていう意味で、良い経験させてもらったと思います。
展示の最後に、亡くなった方たちの遺影が集められているブースがありました。
ぐるりと円形を描く形で並べられた小さな女の子や、網元だったおじいさんや、写真さえ遺すことなく亡くなった方の仏壇の写真。
すごく「見られてる」気がした。
長野にある戦没画学生の美術館「無言館」なんかでも似たような感覚になったことがあるのですが、どう生きるかを突きつけられるというか、自分が生きていることに責任ってそれ自体発生するもんなんだな、と思わせられる。
忌まわしい物事の犠牲になった人たちを前にするとき、やっぱり誓わなくちゃいけない気がする。繰り返さないことを。
水俣病以外の公害病にも、病気それ自体に苦しめられたり、理解されずに差別されたり、認定に際して批判を浴びたりという背景がきっとあって、それら全部について私一人が活動できたりするわけじゃないんだけど。
少なくとも、知ることと、忘れないことはできるから。
何でも、問題の根っこは同じじゃないのかなあ、と思うんだけど。
たいせつなものはなんですか?ってこと。
生活が便利になれば、こんなに悲惨な事態を引き起こしてもいいんだろうか。
いいわけないよな。
この「水俣展」は東京とか、大阪とか名古屋とか、各地で行われていて、そのポスターも展示されていました。そもそも写真が良いんだけど、ポスターがまた良い。
沖縄や広島のときのポスターには「もうひとつの悲劇」みたいな(性格な文言忘れたけど)一文が書かれていて、地上戦や原爆のことが意識されているんだな、って思うのとともに、やっぱり問題の根幹がどっか繋がってるんだなーって感じました。
もともと文章がすごく好きな石牟礼道子さんの『苦海浄土』も読んだことなかったので買ってきました。今の勢いでないと取り組めない気がするので。
……そして、やるべきことがどんどん増えていく。うん、知ってたけどね。
辛くなるだろうなーって思ってて、やっぱり見終えて辛くなったけど、良かったな。行って、良かった。
いつも帰りのバスに乗るバス停にね、ポスターが貼ってあったんです。
だから、毎日どうしよっかなあ、でも休むの優先かなあって思っていた。どうしても行ったらイロイロ考えるだろーな、とかわかってたし。正直、しんどいな、って。
でも、結局「知ることから始めよう。」というポスターに書かれた一文が、背中を押してくれました。
なんか、捕まえ損ねちゃいけない気がしたのね。
新潟も、いわゆる新潟水俣病と言われる公害病が発生している地域です。だけど、私の知識と言えば小中学校の社会科程度。それが、勿体ない気がして。
ちょっと話が飛びますが、先日長岡の空襲の話を地元のテレビ局がドキュメンタリーにまとめていて、その番組を見ながらも「身近な話なのに知らないなあ」って思ったんですよ。
9条を活かして平和な世界を、なんて活動してるのに、同じ県内であった悲劇をきちんと知らないんだなあって。もちろん、ヒロシマやナガサキの原爆被害について知るのも大事なことですが、足元がおろそかって言うか、まず、新潟で起きたことをちゃんと知るべきなんじゃないのかなあって。
そんな思いがベースにあったせいかもしれない。
実際は、ホントに「水俣」の展示がメインだったので新潟のそれについては展示室が別で、ちょっと時間が足りなくて見て来れなかったんだけども、基本的なところをまずとらえるっていう意味で、良い経験させてもらったと思います。
展示の最後に、亡くなった方たちの遺影が集められているブースがありました。
ぐるりと円形を描く形で並べられた小さな女の子や、網元だったおじいさんや、写真さえ遺すことなく亡くなった方の仏壇の写真。
すごく「見られてる」気がした。
長野にある戦没画学生の美術館「無言館」なんかでも似たような感覚になったことがあるのですが、どう生きるかを突きつけられるというか、自分が生きていることに責任ってそれ自体発生するもんなんだな、と思わせられる。
忌まわしい物事の犠牲になった人たちを前にするとき、やっぱり誓わなくちゃいけない気がする。繰り返さないことを。
水俣病以外の公害病にも、病気それ自体に苦しめられたり、理解されずに差別されたり、認定に際して批判を浴びたりという背景がきっとあって、それら全部について私一人が活動できたりするわけじゃないんだけど。
少なくとも、知ることと、忘れないことはできるから。
何でも、問題の根っこは同じじゃないのかなあ、と思うんだけど。
たいせつなものはなんですか?ってこと。
生活が便利になれば、こんなに悲惨な事態を引き起こしてもいいんだろうか。
いいわけないよな。
この「水俣展」は東京とか、大阪とか名古屋とか、各地で行われていて、そのポスターも展示されていました。そもそも写真が良いんだけど、ポスターがまた良い。
沖縄や広島のときのポスターには「もうひとつの悲劇」みたいな(性格な文言忘れたけど)一文が書かれていて、地上戦や原爆のことが意識されているんだな、って思うのとともに、やっぱり問題の根幹がどっか繋がってるんだなーって感じました。
もともと文章がすごく好きな石牟礼道子さんの『苦海浄土』も読んだことなかったので買ってきました。今の勢いでないと取り組めない気がするので。
……そして、やるべきことがどんどん増えていく。うん、知ってたけどね。
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